昭和55年05月10日 朝の御理解



 御理解 第85節
 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」

 お道の信心をさせて頂く者でこの御教えほど、この御教えを行じる事のでけないでおる御教えは、他にないと思うくらいに、これは何と申しましょうかね、もう自然界のもう自然に生きて自然にそのう亡くなっていく、その生き様というものがもう自然に即した、即応した生き方を説いておられるんですね。ですからあまりにもその自然の働きを十二分に、やっぱし働き現す事を教えておられるんですけれども、まぁこれをこのまま頂き行じておる信奉者は、まぁないと言うて良いくらいじゃないかと思うんです。
 と言う程しに言わば人情教になっておるということです。いわゆるここで言われる神情ですね、だからこそ神情と人情の使い分けと申しますか、又はコントロールと言いますか、その辺のところがまぁ分からして頂かなければならないところ、ギリギリは本当言うたらこの通りである。今教祖様の御教えが次々とあのあっておって、教報にゃ発表されておりますが、先日の教報を教えて頂いておりましたら、牛乳のような物を飲んでもいかんということが書いてあるです。
 藁やら草やら食べた物の乳が良かろう筈はないと言っておられますですね。私共はやはり牛乳はやっぱし栄養になると思うて頂いておりますけども、そういうところがねそのう栄養になるとかならないとかと言った様な事ではなくて、その草とか藁を食べた物の乳を飲むと言う様な事は人間自然じゃないて。人間には人間に与えられた食べ物があるんだし、いわゆる子供もおれば母親のお乳があるんだと。多いとか少ないとか出らないとかと、ならば少ないなら余計出るように。
 出らんなら出るようにお願いをしていったら良いんだよと、と言う様な事を教えておられるんだと思うです。なるほど考えてみると草やら藁を食べておる牛の乳ですからね。人間はやはり五穀を頂いて、そして出るお乳ですから、人間に一番適しておるということを仰っておられるんでしょうね。本当にそうですよ。これはあのう私あっち引き揚げて帰りましてから、今椛目に行っております愛子がこちらへ引き上げて帰ってすぐ、まぁ産まれましたから。
 もうそれこそ遅配欠配の食べ物の無い時代でしたから、もう言わばお乳が足りんのです。それで私ある時神様にあのうその事をお願いさして頂きましたら、「それで良い」ということを頂きましたですね。成程まぁ痩せておりました。けれどもねご心眼にあの聖護院大根と言うですかね、丸うい綺麗な丸い大根がありましょう、あの大根を見せて頂いてもう色が白してもう、まぁるっこい膨れとるような例えばその風にしておっても、中をポンと割って頂いた、あの見せて下さった中に鬆がほげとる所を頂いろります。
 見かけは丸々例えば牛乳を与えたり、まぁミルクを与えたりして丸々としておっても、中に鬆がほげとったらつまらん。ここの子供は痩せてこそおれ鬆はほげとらん、これでそれで良いと言われて、本当に足りない母乳だけであの人は大きゅうなりましたがね。こう言う事なんかも、とても実際に遅配欠配様々な意味で難儀でしたから、神様からそう言われりゃそれをまぁ実行した訳なんです。やっぱりそこに物があったり金があったりするなら、やっぱり牛乳でも買うたりミルクでも買うて飲ました事でしょうけれども。
 そういう言わば不自然な事をしなくっても良い。自然に即応した生き方を、まぁ昨日の御理解じゃないけども、そのう知恵の世に段々なって参りましたから、人間が人工的な人間の知恵で色々そのう考えだした。これ食べ物だけじゃありません飲み物だけじゃありませんけれども、そう言う様な特に女の方の身の上の事、つわりとか妊娠とかまぁ色々な妊娠をしますと、まぁ異常に普通ではないのですけれども、それとてもただ神様にお縋りしておって、もう自然そのままの生き様というものを説いておられます。
 もう生まれた子にもう直ぐ乳を飲ませても良い」とかね、もう産んだら直ぐにそのまま平常通りに動いても良いとかね。今の方達が考えたら出来んのですけれども、本当にここんところをそうだと信じて、分からして頂いたらその通りにおかげが受けられるんです。それをやはり私共が、言うならば一日っ言うならば、あぁ人情と神情をまぁコントロールして、私共はおかげを頂いておるわけですけれども、本当言うたらこの85節にある様な生き方が一番自然に即応した生き方。
 それに一歩でも近づこうとする事が信心のこれは精進です。子供を産むとか妊娠したということじゃもう生活の全てがこれです。もう本当に神乍な生き方を身に付けていこうけれども少しばかりなら、あぁ常識的勉強少しばかりの勉強をしておりますと、色んな常識が身に付いてくるから、常識的に言うて実にそれが非常識のようにあるけれども、教祖が教えられるところは、その常識を外れたようなけれどもそれは超常識、いわゆる神乍な生き方を説いておられるのです。
 なかなかこの通りには出けませんけれども、やはり教祖様の仰っておられる事が、段々医学的にもそれの方が良いと言う様な、学説が変わって行っておるような向きもある訳ですね。例えば腹帯、腹帯はいらんと仰るのです。そりゃやっぱ腹帯は皆しますけれども、最近のあれでは、やはり腹帯をせん方が良いと言う様な、その説がだんだん本当になってきておるということです。ですから大変まぁ私共のまぁ常識から言うと、もう本当にそげな事ではいけない危ない。
 それではあんまりだと言う様な感じがするんですけれども、本当に自然に生きて自然に言うならば亡くなっていく、だからその途中とてもやはり自然に即応した生き方でなからなならんということを、教祖は力説しておられます。もう数十年も前でしたけれども、あの神様私にあの燕ですね、小鳥かっ鳥の。あの「燕の死んだのを見た事があるか」と言った様な事を頂いた事があった。なるほど子供の時いたずらして、こう竿を振り回したりでそれにぶつかってあの亡くなった。
 あのそのまぁ燕の死んだのは見た事があるけれども、ほんにあれだけの沢山なこれは燕だけではない、もうスズメだけじゃない、もうあぁいうですね生物というものがですね、生きておるから必ずどこでか死んでおるでしょうね。死ぬでしょうけれども、その言うならば遺体と言うかね亡骸というものを見せない。皆さんはどうですかスズメの死んだの鉄砲で打ったつは知ってますけども、自然に生きて自然に消えて行く様にして亡くなっていく、その有様を知った者はないでしょう。
 そこにはもう不思議な不思議な天地自然の働きがあるのです。自分の言うなら亡骸というものをもう見せない。どこでかやはり天地の親神様が始末して下さっておる。そういう事を頂いて、本当に天地の親神様の手にならなければ、天地の親神様のおかげを頂かなければ、私共は生きられない。拝詞を皆さんが奏上されます。生かされて生きておるということ、これは信心が無かっても確かに自分で生きとるとじゃない。
 生かされて生きておるんだ位な事は誰だって、もう常識的に知ってますよね。だから金光様のご信者だけが生かされて生きておる事を、知っておるということじゃない。問題はならどれだけ有り難いものに触れれるかと、それが分かってどれほど有り難い心で日々神恩、言わばお生かしのおかげを頂いておるということだけでも、どれ程お礼を申し上げなければならないか分からない。というところが分からなければね。
 生きとし生きるもの、言うなら生かされて生きておると言った様な事が、分かっただけでは、信心の無い者でもそん位の事は分かっておるということです。ですから私共はねそれこそ自然に生きて、自然に亡くなっていく、ならその道中もやはり自然に合うた即応した生き方というものを、いよいよ身に付けていく生き方を説かれてあります。私は85節はねあのそういう風に頂いて良いと思うんです。女だけの事だけではないです。自然な一番素晴らしい生き方を説いてあるけれども。
 それを言わば野蛮とか、または非常識とかという風に申します。そこを私共が言うならば神様のおかげで、いわゆるお恵みを受けなければ生きられる事ではないという事実を分からしてもらうから、そこに神恩報謝の心も起こってくるんです。今朝方お夢ともご心眼とも分からん、床の中で頂いたんですけども、チャップリンという喜劇俳優がおりましたね、あのチャップリンスタイルですね。あのちょぼ髭に山高帽かぶって言わばあのダブダブのズボンを履いて、ステッキを持ってというチャップリンスタイルですね。
 そしてでもこりゃあのチャップリンのお知らせを頂いたが、どういうことじゃろかと思ったらやはり「道化」ということを頂きました。「道化」道を化すると書いてある。道をかえていくということです。私は教祖金光大神に掛けられた天地金之神様の願い、それをまぁ正当に受け継いでまぁ受けて、それを合楽理念に説いておるのは、教祖様のあのうご時代に、それこそ触れば温かいものを感ずる、突いたら血が飛び出るような生々しいまでの神様を、現しておいでられた教祖の神様。
 だからこそ今日頂くような御理解が出ておるし、藁やら草やら食べたもんのお前乳ども飲んでから、それで良かろうはずはないじゃないかと言った様な御理解もまた出ておった訳が分かります。そういう言うならば教祖に還れと言った様な事が、まぁ声を大にして言われておりますけれども、教祖に還れと言った様な事は、今日のこの87節80ぅこれは何節ですかの、5節ですかの、85節に現れておるような御教え。またそれに類する御教えが色々ありますけれども。
 それが言うなら生活の上に頂けれる様な、おかげを頂くということが神乍な生き方だということになるんです。だから合楽では言うならその神乍な生き方、言うなら神情一つね神の情でしょう。神乍な生き方ね、それでも言うなら、ば私共の言うならば建前なら建前通りにはいけない事がございます。これが本当だと分かっておるけども、そう出けない所がある。ですからそこんところをコントロールして、言うならば詫びる所詫びて改めるところは改めて、頂いていくという生き方にまぁなる訳ですけれど。
 芯はどこまでも言うならば自然に即応した、言うならば神乍な生き方を身に付けていこうというのが合楽理念なんです。言うならば教祖に還れという。言われておる本当の生き方を合楽では身に付けておる。100年金光教が続けられて来て、いつの間にかそういう信心が言うならば、頭脳の頭だけの神様になったり、言うならば触っても温かさを感じる事の出来ないような、神様にま昨日の御理解で言うと、神を神と用えず言うならば、神様をないがしろにしたような生き方。
 そして人知人力でもって神様を現わそうとしておる、だから神様が言わば引っ込んでしもうて現れならさん。合楽の場合にはそれがね、神乍な生き方をしようさして頂こうと。例えばその南米布教に現れておるように、言葉が分からなければ布教、南米では布教は出けないと言われておるところに、いいえそげな事はいらんと言うて行ったのが合楽です。ただ合楽理念があれば良いと。そこには言うならば言葉は分からんでも、言うならば外人の人達が助かって行っておる。
 次のお繰り合わせの中には、又その外国語を教えて下さるという神乍な先生が表れて、毎日教えに来て下さると言った様なおかげが頂けれるというのが合楽理念です。皆さん段々今日の御理解が分かって来るでしょう。本当は自然に生きて自然に滅び亡くなっていくのだから、しかもその道中とても自然に即応した生き方。少ないなら少ないなり無いなら無いなりの生き方。例えばもう明日食べるお米が無いもう今日一日食べられたんだから、それをしっかりお礼を申し上げて明日は明日の風が吹くぞと言う様な生き方。
 もう自然に即応した生き方。そこには明くる日思いもかけないところから、その食べ物が恵まれ与えられておる。そういう生き方が今のお道の信心者には出来ない。私共はそれをやり抜かせて頂いてきた。成程自然の働きの中には、もう生かさずにはおかん食べささずにはおかんという働きがある。それをこう見事に受け止める事が、私は金光教の信心の本当のおかげであるとこう思うのです。だからその受け心を創らなければいけない。米が無かなら隣から一升借ってきとけと言った様な不自然な生き方。
 大変難しい事ですけれども実はそれが本当だと、私共はそれを曲がりなりにもそうやってきた。だから私共は夫婦布一寸買いません、米一粒買いませんでやってきた。いらん、着らんと言いよっても、着らせずにはおかんという着物が集まってくる、食べんと言うとっても食べささずにはもうおかんという働きが起ってくる、自然界にはそういう大きな働きがあるのです。それを教祖様はキャッチしておられた、それを体験しておられた。ですから今日のような言うなら私共。
 今の私共現代の私共としては大変難しい。この御教えが出ておるということになります。けれども教祖に還るということになると、そういう信心を私共が本気でね、言うならここで薬は毒だという風に申しておりますのもそうなんです。それをまぁ薬を飲む時には、それを人情と神情のコントロールをして、どうぞ神様毒が薬になりますようにと言うて、願って飲むというのは、こりゃ人情と神情をコントロールして頂くのです。どうぞ毒ですけれどもね。
 この毒が薬になりますようにという願いを持ってする所に、薬としての言うならば効果効力というものが、頂けれるということになるのです。いわゆる毒薬変じて薬となる訳なんです。私共がねあのうそうした教祖の御教えを頂いて、そういう自然に即応する生き方ということになるとまだ沢山色々ございます。今日のこれは妊産婦に対する、妊娠そして出産そしてその後の事までも、私共ではどう到底実行出来ないような、難しい教えをしておられますけれどもね。
 私共に度胸が無いもんだから、それが実行出来ない実行出来ない所はね、だからコントロールさしてもろうて、お詫びする所はお詫びをして。本当はこうなんだけれどもと言うところを、いよいよ分かっていかなきゃならない。私は今日お知らせを頂いてそのチャップリンの事を頂いてです、道化ということ道を言うならば100年余り経った金光教の道がね、おかげの頂けない道になってしまっておるのを、これを化していかなければいけない、これを変えていかなければならない。
 そういう言うならば期待、神様の願いが合楽には掛けられておるのです。あのチャップリンという人はもう素晴らしい。自分で原稿あの筋を書いてそして自分で監督して、自分で出演をするという才人で、もう大変な人格者でもあったらしいですね。ですからもう本当にその時代を風靡すると言うか、またはあのう本当な事を映画の上に、まぁ面白可笑しゅう喜劇的に現す。そのためにアメリカを追われると言った様なまぁ時代があった。そしてまた晩年の頃はアメリカにこう、招へいされておりますがね。
 そのチャップリンと頂いた時に、本当な事を言う本当な事を行うていくという、それを映画の上に表した人ですね。だから国策に沿わないと言った様な事を、こう横しにと言うかこう国策を皮肉った様な生き方を致しますからあの敬遠された訳です。合楽の場合もそれが言えると思うです。本当な事をやっていくそすとそれはいかにも今の教団の在り方に反対をする、弓を弾くような風にも見えるのです。今までのその今の生き方では駄目だっというから、やっぱ反対をするように弓を引くように言われるのですけれどもね。
 私がまだ神様から色々お知らせを頂くまぁそのう言う風に時分に頂いた、道修繕お道修繕ということを頂いた。もう金光教という金光道がもうこう壊れたりして、まぁ一人がやっとかっと行ける様な事、もう車も通られんっちいうごとなっとるから、これを修繕していかなきゃいけない、沢山な人がどんどん通れる様な道にしていかなきゃならない。そんな事を頂いて、うんこれは何10年前に頂いておった事ですけれども、今にしてそれを思いますとです道を変えていく、大きな言うなら神様の願いが掛けられておる。
 だからそれを私共がね、合楽に御信心を頂いた人が、今日当りの様な神ながらな御教えを。神ながらに行じていける程しの精進。いわゆる神情を持っての信心生活が出来る様なおかげを頂いていく、神様の凄まじいまでの働きを身に感じまた頂き現していく、そしてこの道が本当だとい、道を打ち立てていかならければならない、言うなら合楽道である。神様と氏子とがね喜び合い拝み合い、合いながらいけれる有り難い道があるのだ。そういう道を私共はね、今日は道化と頂いた道化というのは。
 まぁ喜劇的な意味があるね、道化る道化役と申しますよね。だからそれを道字で書きますと道を化すると書いてある。ですから合楽に掛けられた神様の願い、金光大神の願いというものは言わば教祖に還れという、本当に触れば温かみを感じる突きゃ血が飛び出る様な、生々しいまでのおかげが合楽では現れておる訳である。だからそういうおかげの元である所の、神情一筋の生き方神乍な生き方をいよいよ身に付けていく。
 お互い本当に言わば道化の言うならば、金光教の本当に助かる事の出けれる道が、合楽の信心によって合楽理念によってね建て直されようとしておる。為に合楽に御縁を頂いておる人達がそこに実験し実証してこういう働き、こういうおかげを受けられるという実証をして行く事の為には、いわゆる神乍な生き方、言わば神乍な御教えというものを身にいよいよ付けていかなければならない。
 チャップリンではないですけれども敬遠される、国を追われる様な事にもね成兼ねないかも分かりませんけれども、本当な事を言う本当な事を行うていく、これが今の合楽の生き方です。皆さんもだから言うならば、そういう度胸と言うか信心の度胸を頂いて神乍らな生き方。これは私共が数30年前に、いわゆるお金が無いなら無いまま、着るものがないなら着るものはそのままね、わざわざ言うならば不自然にね、金を出して買おうとも隣から借ってこいとも言わん。
 言わば生き方をさして頂いて今日の合楽がある。そしてそんならばお米が無かったからかつれ死んだか、食べなかったかと言うとそうじゃないそこには生き生きとした神様が、明くる日はちゃんと食べ物を用意して下さる程しの体験、布一寸買いませんと言うておっても、神様が着せずにはおかんという凄まじい働きというものが。私共の上に現れておるという事実をね、踏まえての合楽理念ですから。
 口だけで言うのじゃない、確かにそういうおかげが頂けるということを確信しての、信心の稽古でなからなければならん。どうぞ言うならば藁やら草やら食べた物の、言うなら乳でね良かろう筈がない。人間には人間の言うならば人間の子には、人間の乳を飲ませなきゃいけない。その事だけじゃないもう一事が万事にそういう言うならば、神ながらな生き方をいよいよ身に付けていきたいと思うですね。
   どうぞ。